1,000の意識レベルを一個ずつ超えていくために、レベル40は無力感だ。
それを今すぐ解消できないとしても、意識することで活路は見出せる。
例えば1,000の意識レベルをこのまま1,000日間、約3年続けたあとにもう一度1日ずつなぞっていく。
1040日目に再び「無力感」と向き合った時、自分は変わっているか?資産は増えているか?無職FIREを継続しているか?
それを知るためにこのブログを継続していきたいという夢ができた。
無力感の正体は万能感と表裏一体だ!
どちらも自分が期待している成果に対して過小評価しているか、過大評価しているかに過ぎない。無力なはずはないし、何でもできるはずもない。
つまり捉え方がポジティブかネガティブかにすぎない。別に実績や実態が伴うものではない。
ではこの無力感をどう超えていくか?と考えた時に自己啓発書「7つの習慣」が真っ先に思い浮かぶ。
自分が直接コントロール・改善・働きかけできる領域である「影響の輪」と気になっている領域「関心の輪」がある。

関心の輪とは例えば宝くじで1等当てたい!という願望、影響の輪とは実際にそれに対する可能な行動である。
できることは継続して買うこと、風水を意識するなど自分の行動だけ、当てるという結果は自分で選ぶことはできない。それが関心はあるけど、影響を与えられない範囲だ。
株価、天気、誰かの機嫌、過去の後悔、これらは興味があっても変えることはなかなか難しい。自分が影響を与えられるのは傘を刺すとか、学ぶとか、前を向くとかだけだ。
つまり、無力感とは「関心の輪」ばかりを見ている現象で、万能感とは「影響の輪」しか見ていない現象で、視点の位置だけである。
しかし本来的にはその周りにはもっと大きな「無関心の輪」が無限に広がっているはずだ。
自分が何かに影響を与えられる、自分がこうでなくてはならない、そういった理想像があるからこそ、人は期待値を間違え落胆する。
影響の与えられる範囲を広げる、この「影響の輪」自体も意識が高すぎる超成長志向すぎる話かもしれない。
本来は影響も関心も氷山の一角で、それを遥か包み込む「無関心の輪」がそこにある。
知りもしない、影響を与えられない世界が大半だ。嘆くのも、何かを成そうと挑むのも実は視野が狭い行為なのかもしれない。
無力感を超えるというのは「何かができる」という自信をつけることではなく、そもそもが無であり、有であり、どっちともつかない何でもない流動性のもので、触れてるような触れていない、取り止めのないものなのかもしれない。
では意識レベルとしてどうこれを処理すればいいか?
例えばスロットで大金負けて落ち込んでるタイミングで、隣にフラッと座ったおばさんが大当たりする。よくある現象だ。
例えばFXでもう1円なら耐え切れる、下がれ、下がれ、わかった覚悟決める、もう1円耐える、いやだめだ。もう無理だ。あと20pips負けたら損切りする、もう最後、あと追加10pips。だめだ損切りする。そこが頂点となり持っていたらしっかりプラ転。
よくある。
こういう時に、あそこで当たっていなかったからこそ、交通事故を防げたとか、人生の今後の大負けを防げたなどの理由を見出そうとする。でも、納得できない虚しさしかなかった。無力だ、そう思う。
だからこそ、そうじゃない。
スクリーンに映るように流れていく、感情も、環境も。何もしない。何もない。無力ですらない。何もないんだから。
無力なのではない。さすがに今の自分に答えが出せなかったので、チャッピーに相談した。
そもそも「変える」という発想自体、人間視点の執着では?
無力感というのは、本当はまだ“主体”が残っている状態。「世界を操作できる自分」が前提にいる。「主体そのものが曖昧」な感覚。
非主体であれ。
「意味付けすら執着では?」すると最後に残るのは、「現象」。
ただ起きる。
ただ流れる。
だから「無力ではなく何か?」に対しては、「流動」「現象」「空(くう)」「未固定」
影響の輪すら緊張。
非主体、脱力。ここに答えがありそうだ。
実際に最悪の気分で、こんな発想ができるかはわからないが、1,040日目に答え合わせがしたい。非主体に自分はたどり着けているのだろうか?3年後も無職で生き抜いて確かめないといけない!
明日、41日目は悲観。これを解消する術を探しながら今日も意識と無職を巡る旅を進めていく!



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